幽霊なんかいない。
この世に幽霊とか心霊現象なんかあるわけない。
こういう調子で霊とか幽霊を信じている人たちを論破する方はすごく多いです。
その根拠も十分に説得力ありますし、確かに「幽霊はいない」説を唱える方が正しくて“常識人”かもしれません。
でも、あえて霊の存在を肯定する側から言いますと、全部が全部「いない」と主張する、論破できている、と言うのならば、ぜひ考えてみていただきたいことがあります。
そういう「いない」派の人たちは、それにすら他の理由をつけるかもしれませんが。
「心」の存在はどうなの?
ごくごく簡単に言いますと、私自身は幽霊というのは「霊」と呼ばれる物の一つの種類であり、そして「霊」自体は、人間の「心」そのものの一つの形だろうと考えています。
人間が死んで、「心」が肉体から離れてしまった時に、それが幽霊とか霊魂というものになる、というのが私の考えです。
世の中には、それが見える人、見えない人がいるわけで、だから大概「幽霊なんていない」と主張する人たちは、そういう物を見たことがない人たちになるかもしれません。
ということは。
もしも「幽霊がいない。科学的にそれが証明されているから論破できる」と主張するならば、私たちの「心」の存在はどうでしょうか?
実は私たちの心もない。存在しない。
あくまで私の主張ですが、この通りになるはずです。
ですが、私たち人間に「実は心なんてものはないんだ」と、どうやったら論破できるでしょうか?
日頃私たちは日常生活の中で、様々に身の回りから刺激を受けて、そのたびに頭の中で何かを思ったり悩んだり、喜んだりしています。
自分で「自分に心という物は確かにある」と、誰でも実感があるはずです。
そういう心というものが実は「全然あるべくもないもの」。
そう論破できると言い切って良いのかどうなのか?
それがいまだに腑に落ちないのですが、いかがでしょうか?
それとも私たちの「心」と霊、さらには亡霊とか幽霊などという物とは全くの「別物」。
だから二つを結びつけるのがそもそも乱暴すぎて大きな間違いだ、となるでしょうか?
心の存在を否定できたら最高の論破?
でも、心も幽霊も両方ともふつうでは「目に見えない物」ということで共通しますし、
優れた霊能者の中には、他人が今どう思っているかをすぐに分かる様な人もいると言います。
こういう心霊上の情報や知識が、やはりいまだに私を「いない」説に傾けさせなくしているのです。
でも、皮肉っぽくなりますがこれを論破できたら最高かもしれません。
要するに、それは
「幽霊なんかいないのと同じく、私たちに実は「心」なんか存在しないんだ。科学的にだって証明されているんだから」
となりますが。
「いない」と主張する方が安全で簡単?
実は幽霊なんかいない、というように、「幽霊を見た」とか「死んだ人が目の前に現れた」と主張する人たちを論破するのは簡単です。
一つにはよく言う、「科学的に証明されていない」。
幽霊を見たとかいうのは、錯覚だったり脳や精神の特殊な状態による結果だったり。
また、心霊写真とかいうものも、こじつけだったり電気や磁気のいたずら、あるいはカメラの誤作動に近いもの、などという可能性だってあるかもしれません。
つまり科学的な視点から考えれば、いくらでも理由付けができるのです。
また、人間の知覚や感覚というのは、すごく曖昧で錯覚も起こしやすいとも良く言われています。
こんな風にしっかりと理由付けもできるので、実際、「幽霊がそこにいた」「本当に見たんだ」と主張する人がいたとしても、私自身も含めてふつうはその人の“思い込み”、“錯覚”と考えます。
世間体もある?
また、この物騒な世の中、やたらと霊の存在を声高に主張したりするなどすると、「宗教の勧誘?」「アブナイ人?」みたいにハス目で見られるのがオチでしょう。
実際、本当に霊の見える人というのはごくごく少数派ですし、またそんな社会的な背景も手伝うので、幽霊なんかいない、というスタンスを取っておくことが実生活の上では安全なのです。
だから。
「私は幽霊なんか信じていない」
「そんな物いるわけない。科学的にも論破されているでしょ」
みたいに語る人の中には、本当は信じているかも知れません。
私もそれに近い立場なので分かります。
それを世間体を気にして、本心を隠していることだって十分あるわけです。
心の存在が科学的に立証できるまでお預け?
そんなわけで、日頃自分なりに疑問に思っていることについて、語ってみました。
確かに、幽霊と心を結びつけるのは乱暴だと思います。
でも、逆に心の存在が科学的に立証できるようになれば、案外といるのかいないのか、どちらか一方の主張をきちんと論破できるのかもしれません。
あいにく今の科学はそこまで発達してはいないのかもしれませんし、だとしたら未来のある時点で、そこまで発達できるのかもしれません。
「幽霊はいる派」、「いない派」どちらに軍配が上がるのか?
それまで論破した、しないの結論はお預けかも知れないですね。
ただ、それにしても最近あの江原啓之さんも某テレビバラエティ番組の中で
『この場で(自分が)「見える」としゃべるのは、科学的に証明されていないのでできません』という意味の、いわゆるテレビ局側との“コンプライアンス”を打ち明けていたのが印象に残っています。
こういうテレビ局のスタンスにも賛否あると思います。
でも、何となくテレビ番組がこの頃夢がなくなって面白くない様に思います。
その一つの原因としてこういうスタンスがあると思いますがどうでしょうか?
神野天希(かんのあまね)